覚え書き
絶対に忘れないように。
メモをしよう。
絶対に忘れないように。
君に伝えなくちゃいけないことがあるから。
もう、流石に道は覚えた。
会社から北へ、信号を一つ超えたら、タバコ屋の角を右折して、そのままひたすらまっすぐ進めば、そのうち瓦屋根の家が見えてくる。この界隈は10数年前はモデルハウス地帯だったらしく、瓦屋根の家は目立った。だから相当のことがなければ、迷うこともないだろうけれど。
最近は彼女を送り届けるのが日課だから。
時間にして徒歩15分。最も、雑談をしながら歩くので、大抵の場合はもう少し余分に時間がかかった。
丸顔のおばちゃんが店先に座るタバコ屋を超えたところで、彼女が僕のワイシャツの裾を軽く引っ張った。
「篠原(くん、何かあたしに言うことない?」
2歩程後ろを歩いていた琴子(さんが、小走りで僕を追い越すと、くるりと身を翻して見せた。
あいかわらず小さいな。
僕は歩みを止めた。
精一杯背伸びをしているんだろうけれど、爪先はカタカタと震えていてなんだかバランスが悪い。
それでも必死で僕の目を見て話そうとしてくれているのが嬉しくて。僕は上半身を折って彼女に目線を合わせた。
「別に」
琴子さんはいっそう爪先に力を入れて、体をまっすぐ伸ばす。
ああ、そんなに前傾してちゃ、こけそうだ。
「本当に?」
彼女のまん丸の瞳が、まっすぐ僕を射抜いている。
「うん、特に何も」
琴子さんは背伸びをやめて、地面に足を落とした。
心なしか、肩を落として俯いているように見える。僕は何か、悪いことでもいったのか? 思案しても思い当たることはなく、ただただ彼女を見つめることしかできない。
何を言うでもなく、彼女は僕の左手を両の手で包み込んだ。
小さな掌は春先だというのに、ひんやりとしていて。僕は少しだけ身震いをした。
どうしたの、尋ねるより前に左の手が解放された。
「今日はここまででいいや。ありがとね」
僕の顔を一度も見ないまま、彼女は小走りで駆けていく。
小さな手足で、必死でかたかたと動くねじ巻き人形のようで。僕は彼女の姿が点になるまでずっと見つめていた。
掌に柔らかな感触と冷気の面影だけが、僕に残った。
風呂に入る時になって、僕はふと左の手の甲にボールペンで何か文字が書いてあることに気付いた。
大分薄れていて読みにくいけれど。
明 子さんの 生日、そう書いてあるように見えた。
「明子さんの生日?」
口に出して読んでみても、何のことなのかさっぱり分からない。
一体いつ書いたんだろう。
そこまで考えたところで、靄がかかっていた思考が一気にクリアになった。
「明日、琴子さんの誕生日!」
そうだ。昨夜眠る前に、絶対に忘れないようにと書いておいたんだ。
今になって、別れ際の彼女の行動の意味を知る。
脱ぎかけていたシャツを羽織り、部屋の時計を見た。
駄目だ。午前0時に辛うじてなってはいないものの、申し訳程度に左に針がずれているだけだ。今から琴子さんの家に行っても間に合いそうにはない。
自分の莫迦さ加減を呪いながら、携帯電話に手を伸ばす。
焦っているせいか、琴子さんの上に登録してある番号を押してしまい、慌てて切った。
軽く一息ついて、もう一度、電話帳から彼女の番号を呼び出しす。今度は間違えることなく、呼び出し音が鳴り響く。
7コール目で、「もしもし」ようやく琴子さんの眠気を噛み殺したくぐもった声が漏れ聞こえた。
「もしもし、ごめん。寝てた?」
「んー、もうすぐ寝そうだった。何? ひょっとして、思い出した?」
「思い出した。琴子さん、誕生日おめでとう」
受話器の向こう側から、くすくすと小さな笑い声が響く。
「ありがと」
ごくごく穏やかな声だった。そこには呆れの音や怒りの気配はちっとも無い。
もうすぐで誕生日を忘れてしまうところだったのに。
「怒ってないんだ」
彼女に尋ねると言うよりも、すぐに疑問が口をついて出た。
「だって、左手にメモしてあったもん。忘れないようにしようって思ってくれたんだなーとはわかってたから。その気持ちが嬉しかったんだよ。日付が変わる前にはちゃーんと思い出してもらえたし、ね」
「だけど……」
「なぁに? 怒らなくちゃ不満? だったら、……そうだなぁ、愛してるって30回言ってくれないと許してあげない」
僕は思わず言葉に詰まる。
そんな反応を見透かしたように、ひたすら彼女の笑い声が聞こえてくる。
「言えないでしょ? だから、ね。許されちゃっていいんじゃない?」
「言えるよ、その位。愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる。っと。愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる……なあ、もう30回位言っただろ」
「まだまだ、18回しか言ってないよ。もうギブアップなのかなぁ?」
完全に面白がってる……。
にやにやと頬を緩める彼女の顔が、容易に想像できる。
僕は半ば意地になって続ける。
「愛してる、愛してる、愛してる」
言いながら、
「愛してる、愛してる、愛してる、愛してる」
僕はなんだか、
「愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる。よし、これで30回きっちり」
違和感を感じていた。
声は聞こえているけれど、彼女との距離が遠い。
確かに彼女の声は聞こえるけれど。
表情が見えない。
温もりが傍にない。
「まだだよ」
平然と、彼女は言ってのける。
「え?」
「足りない。気持ちが」
僕はすぐに、春物のコートを羽織っていた。
「琴子さんが照れてくれなくちゃ、言い甲斐がないよ」
「んー。あたしも、篠原くんが真っ赤になって言うところが見たいな」
玄関へと向かう。
ただただ、逸る気持ちだけが先に彼女の元へと急いでいるけれど。
「今から行くよ」
「明日、仕事で逢えるよ?」
言いながらも、彼女の声はすぐに来いと言っていた。
スニーカーを履きながら、僕は部屋の照明を消した。
「どうせ、もう今日なんだから。あんまり変わらないよ」
もう琴子さんの誕生日は過ぎてしまったけれど。
彼女の笑顔が今すぐに見れるなら、そんなことはあまり関係はないんだな、きっと。
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